インドへ駐在が決まった日

インド日常生活

大変なことが起こった

初めてインド駐在の打診があった日、旦那さんは会社から帰ってくるなり

「大変なことが起こった」と言った。

私はとっさに海外駐在か!?と察知したが、まさかインドとは思いつきもしなかった。呆然とする両親の横で、「やったー!ばんざーい!」と大喜びする唯一の存在、長女ラスカル(9)。彼女は前から海外駐在さえすれば英語が話せるようになると思って憧れていたのであった。これは誤解であると後からわかるのだが、それはまた後で述べることとする。あとはほとんど事情の分かってない長男ハッチ(5)とまだ母乳を飲んでいた次女フローレン(2)。

インドに三年。

行くか、行かないか?一応返事ができるということだったが、旦那さん的には、意外にも行きたそうな雰囲気である。

で、最初に私がやったことは

「インド 駐在 ブログ」でインターネットを検索することであった。

私が一番知りたかったのは、基本的な生活の様子とともに、子供の学校についての情報、特に長女ラスカルが通いたがっているインターナショナルスクールの情報であった。が、2015年当時、日本ブログ村インド情報ブログカテゴリーの上位を占めるのは、インド人と結婚している日本人女性と、駐在で夫婦で暮らす日本人女性のみで、

「子育てしつつ駐在している人」

は皆無だった。欲しい情報がなかなか出てこない!!

でも私に選択肢はなかった。まだ子供は9歳、5歳、2歳である。たとえ三年であったとしても(そう言われていた)、日本でワンオペ育児は私は無理である。それに何より旦那氏が父親としてほぼノータッチになることが、いい結果を生むとは思えなかった。そして9歳の長女ラスカルがなぜかとっても行きたがっている。海外にとても興味があるらしい。

賽は振られた。かくしてインド行きは決まっていったのである。この件では夫婦でかつてない大ゲンカをするなど、家族としては揺れに揺れた時期でもあった。

駐在帯同は決まったものの

焦る私に怒涛のように押し寄せる「ああ、私って日本のこと大好きだったんだ」という実感。そして「インドなんて未知の国に行って生きて帰ってこれるかわからない」という恐怖。そしてどんどん迫り来る渡航準備と、変わらぬ日常生活の二本立て。

そんな中、旦那さんは先に駐在が始まるため、温めてごはんに載せたらすぐ親子丼になるパウチや、インスタント味噌汁、缶詰、そして米と炊飯器、空気清浄機などをとにかくどっさり持たせて航空便第一弾をお願いしたのであった。

今振り返っても「間違っていたなあ」と思うのは、ゴマ1キロとか、赤飯のもととか、あんなの、なんで持たせたんだろう…。結局インド駐在二年半の最後まで使いあぐねて終わったものもあった。しかし炊飯器と米とすぐ食べられる長期保存できるお惣菜は正解であった。ちなみに航空便といえども日本からインドまでは一か月かかるため、当面の食べ物や薬など早急に必要なものは手荷物が確実である。(後で知ったが一般的な海外航空便は1~2週間で着くらしい。さすがだなインド)

もちろん日本食レストランなどもあるので、なくても死にはしない。「なくても死にはしない」これはインドで幾度となく繰り返すことになるパワーワードであった。

旦那氏が出発の日は、成田空港までわざわざ見送ったが、これはしなくてもよかった。子供がしばらく空港を見るたびに涙ぐむくらいトラウマになってしまった。玄関で元気に「行ってらっしゃい」だけすればよかったのだ。

さて、我々は友達や両親とのお別れ会も済ませ、船便と航空便を出し、悩みながらも準備を進めた。自宅は貸すか空き家のままにするか迷ったが、結局空き家にすることにした。これは頻繁に一時帰国をするインドではとてもよい選択であった。

週末になると「おとうちゃんがいない」と泣く子供たちとともに半年間ワンオペ。ワンオペが嫌で帯同を決めたのに、一緒に行けないなんてとんだ落とし穴だったぜ。

これを何年も続けている単身赴任のママすごいな。

いよいよ渡航

予定通り、半年インドで暮らした旦那さんが7月に一時帰国した。いよいよ家族全員で渡印である。おりしも酷暑の中、汗だくになりつつ家を隅々まで綺麗に掃除して、ご近所の親切なご夫婦に管理を頼んで、日航成田ホテルへ前泊、成田空港から約9時間のフライトを経て、意外にも日本より少し涼しい、ニューデリー空港へと降り立ったのである。

成田空港にて

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