先日は中3の長女ラスカルの運動会でした。コロナ禍の中、平日の短め開催ではありましたが、無事運動会できてよかったな、というのがしみじみとした心の底からの感想です。でもなぜかすごい悲しみがこみ上げてきました。どんな悲しみだったのか、少し整理整頓するために書いてみようと思います。
4年生から5年間の運動会の歴史振り返り
長女ラスカルは4年の5月に日本の公立学校の運動会を終えて、8月にインドのニューデリー日本人学校へ編入しました。そこでは秋開催だったので、この年は運動会に2回参加したことになります。駐在する時は、こんな風に色々な行事や学習内容が飛んだりダブったりするのはあるあるです。ちなみにニューデリー日本人学校は夏休みが6月なので、この年のラスカルの夏休みは消失しました。宿題も消失したから、まあいいよね。
小学4年のニューデリー日本人学校の運動会
ニューデリー日本人学校の運動会は小、中合同で、総勢300人ほどの規模校ならではの、そしてインドという逆境でもたくましく健やかに生活している連帯感みたいなものもあり、アットホームな行事でした。圧巻なのは、小学1年から中学3年までの選抜リレー。親視点で見ると、子どもが9年間で様変わりする様を早送りで見るような驚きと感動が味わえる、素晴らしい種目でした。小学1年の小ささあどけなさと、中3のもう大人と変わらない体つき。子どもって本当にすごい。いやそんな感動のためのリレーじゃないと思うんですけどね。
小学5年、6年のインターでの「スポーツフェスティバル」
小学5年生から2年間は、本人のたっての希望でインド人ばかりのインターナショナルスクールへ編入しました。ここではいわゆる日本的な「運動会」はありませんが、代わりに「スポーツフェスティバル」がありました。事前に練習を積み重ねたりせず、その場でスポーツを楽しみ、競技ごとに少しタイムを測ったりするくらいの行事です。親が見にきたりもするのかな。休日に開催されたため、予定を入れてしまっていて、参加しませんでした。年間予定とか前もって教えてもらえないので、行事をかなり直前に知らされるのも、海外のインターあるあるのようです。この時、「日本式の運動会」ってすごく特殊な行事なんだと気がつきました。暑い中で事前に準備を重ねて、先生も子どもたちも結構負担だし、親も総出で見に行くような運動会は大変な面もある。こんな軽い行事にしてもいいんじゃないかなと思ったものです。6年の12月に今度はバンコクへ移動したので、6年のフェスティバルにはギリギリ参加できませんでした。つまりこの年は運動会が消失したのです。
中1、2のバンコク日本人学校の運動会
再び、今度はバンコク日本人学校へ編入したラスカル、今度はウルトラマンモス学校の運動会を2回体験しました。中学部は小学部に比べてまだましではあるけど(小学部2500人、中学部500人くらい。中学部は1学年6クラスくらい)、最高に高い気温の中で、大人数で繰り広げられる運動会はすごい迫力でした。
改めて日本の運動会に参加している娘を見て、これは子どもたちが学校で楽しく過ごしていて、成長していく過程を、瞬間凍結みたいに保護者に見せてくれる行事だなと思いました。こんな日本式の運動会を海外でも開催してくれることが有り難いし、貴重だなとも感じました。これはニューデリーでも同じことを思ったんだった。2年ごとに違う場に移され続けても、その場その場で根を下ろして頑張っている娘の姿に、私は励まされ続けてきました。
日本の公立学校の運動会に再び戻ってきた
中3で戻ってきた日本の運動会。コロナの影響もあり、とても簡素化されていて、部活動リレーなどの名物競技も省略されていたみたいでした。去年を知らないのでよくわからないけど。ここでもやはり子どもたちと先生方の力強い繋がりを感じて、パフォーマンスも工夫されていて面白くて、ホントに良いものだなと感じました。平日開催のうえ保護者からグラウンドが遠く、子どもの姿は意外にもバンコク日本人学校よりずっと遠かったのもあり、DVDが後から発売されるとか。素晴らしい天気にも恵まれて、こんな状況下でも子どもの成長をこんな形で実感できて、ありがたかった。でも、私の心の中では感謝とともに、悲しみがこみ上げてきました。
涙の理由は、繰り返される移動の悲しみ
長女含め、子どもたちは毎日学校に通い、もちろん辛いこともたくさんあるかもしれないけど、確実に地面に根を張り始めている。旦那氏も、もちろん海外にいる時から今まで、メンバーは変わったとしても、ずっと同じ会社に所属している。でも私はどこにも「毎日行く場所」がない。出来ることを始めたいと思って、ピラティスと陰ヨガのレッスンを始めて、それが支えになってきたけど、それだって初めての試み。安定感を欠く要素でもあった。運動会をずっと見ていて、思い出されるのはバンコクとニューデリーの過去の運動会という状況に気が付いた。あそこでは、居並ぶ人たちみんなの多くは「駐在」ということが聞かなくても分かっていたし、自然にたくさんの人と繋がれた。私はあそこに、自分の心を少しずつ置いてきてしまったんじゃないかとハッとした。運動会という共通のキーワードで、過去の日本人学校での記憶が蘇ってきて、そこに戻りたいと思ってしまっている、日本に帰ってからずっと孤独だった自分を8ヶ月目にして、再発見したのです。コロナの自宅での自粛生活は、この孤独を感じないでいられた、私にとっては願ってもない生活だったんだよね。だから気付くのが遅れたのだろうな。
私は日本の元いた場所に戻ったから、日本の友だちもいる。優しい友だちたちは、このコロナの中、しかも仕事で忙しい中、私と会ったり話を聞いたりしてくれる。だから日本の友だちを1から作り直す駐在妻に比べたら、全然ラクだと思う。そして、本帰国した駐在妻が同じ気持ちになるとは限らないとも思う。
でも小さなキャパシティの私の今の気持ちは、移動、慣れた頃にまた移動を繰り返す5年間の中で、出会いも楽しいことも沢山あった中で、日本に帰ってきて落ち着いて見えてきたのは、「どこにも繋がっていない孤独感」、「なにも積み上げてこなかった空虚感」だったのです。この気持ちを共有できる人がいないという孤独です。
みんなこの孤独を抱えて生きているのかな、とも思うし、そんなことを考える時間がないという人も多いのかもしれない。この孤独感をじっと見つめて、受け入れていくしかない。そうすることで、成長していくしかない。今はそんな気持ちでいます。
個人の気持ちについて長く書いてしまいました。ここまで読んでくださりありがとうございました!
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