日本人学校に通わせること、国と国との境界線に立った時に感じること

心の備忘録

中国の深圳にある日本人学校で、10歳の男の子が殺傷されたという痛ましい事件が、2024年9月16日に起きました。犯人は中国籍の男性で、母親と一緒に登校している最中の出来事だったそうです。私はこのニュースを聞いたとき、衝撃と驚きを感じながらも、ついにこんなことが起こってしまったと感じました。起こるべくして起こったというか、全く意外ではなかった。

私は中国に住んだことも、旅行したことすらもありません。日本と中国とは、歴史的にさまざまな出来事があり、その過去のためになかなか良好な友好関係を結べない一方で、お互いに無視できないほどの強い関係性を持っている国だと認識しています。でも、別に日本と中国が特別変わった関係にあるとは思いません。隣国というのは、どこの国も多かれ少なかれ、そんな関係を持たざるを得ないのだろうとも思います。その程度の知識で何かを言うとしたら、それは「日本人学校に子どもを通わせること」についてです。

私はニューデリー日本人学校と、バンコク日本人学校に、3人の子どもを約2年ずつ通わせました。日本人学校というのは、文部科学省から派遣された教師が、文科省が定めるカリキュラムを、日本語を使って学ばせる場所です。日本国籍を保有している子どもしか通うことができないという基本的なルールがあります。そのため、運動会や文化祭のような行事も含めた、いわゆる「日本の教育を受けられる場」として設立されています。残念ながら、給食や掃除の時間はなかったですが…。(お昼はお弁当で、掃除は現地の方がスタッフとして、掃除をしてくださっていました)設立する資金は現地にある日本企業が出資します。

つまり、教育内容は限りなく日本の公立学校と同じなのだけど、学校自体は私立学校。またそれぞれの国の文化や言語を反映した授業やイベントが行われることも多くあるようです。例えば、バンコク日本人学校は、タイ政府の要請により、タイ語の授業が必須科目でした。インドでは政府によるそんな要請は特になかったと思いますが、学校自ら、総合授業でインドをテーマにしたり、インドの文化を感じる1日を行事として設定したり、小学校の修学旅行先がタージマハルだったりと、文化を学ぶ機会を積極的に行っていたように感じました。

日本人学校とは、現地に住む日本国籍の児童たちの「日本の教育を受ける権利」を保障してくれる、その国に住む子育て世帯の日本人にはかなりなくてはならない、貴重な場所だと言えます。どこの国のどの都市にもあるわけではないので、もし日本人学校がない場合は、その国のインターナショナルスクールか、現地の学校かという二択になると思われます。インターがなければもちろん現地校一択です。日本人学校があったとしても、そこに行かずに、インターや現地校を選ぶ親もいます。駐在家族の場合、その辺りの規定は各企業によって違いますが、そんなに安くない学費は基本的に企業が出してくれるので、中には「インターに行くなら自費」という企業もあったようです。また、駐在ではないけれど、現地の方と結婚した日本人の子どものような二重国籍の児童(いわゆるハーフ)が、日本語を確立するために通うという場合もありました。その場合はもちろん、学費は自費になります。

私はインドとタイという、たまたま「親日国」と呼ばれる国にしか駐在していませんが、それでも毎日、「もしかしたら思いがけない事件に子どもや自分が巻き込まれるかもしれない」という思いは、日本にいる時の倍は感じ続けていました。なぜなら、その国の歴史もよく知らず、その国の文化の素養もなく、つまりその国の「文脈」というものがよくわからないからです。

向こうから歩いてくる人間がどのような人間か、わからない。これが私の最初に感じた恐怖でした。日本なら、この国の「文脈」がわかるので、その人の服装や目つき、歩き方や、いつどこにいるのか、みたいなことから、その人がどのような立ち位置か、だいたいの見当はつきます。子どもと外の道を歩いている場合、親は無意識に近いところで、そのようなチェックを皆さん、しているのではないでしょうか?日本だとそのセンサーはほとんど反応しないのですが、海外だとセンサーは突然忙しくなります。なぜなら相手がどんな立ち位置なのか全く掴めないからです。

しばらく暮らしていると、それでもだんだん見えてくるものはありました。が、住んでいる短い間にも、インドでもタイでも突然、テロや暴動のようなものが起こったり、道端で爆発物が爆発したりしていました。暴動で水道が止まってしまったり、日本人のスクールバスやインターのスクールバスに投石があったりしたこともありました。豪雨で渋滞の中スタックしたスクールバスが家に到着したのが夜の9時過ぎということもありました。タイでは小さな子どもがショッピングモールなどのトイレで拉致され、臓器売買などに使われるという話を聞くことが多く、実際に誰か被害に遭ったということはないものの、「いつ何に巻き込まれてもおかしくない」というのが、我々の肌感覚でした。日本に住んでいると感じないこの「1枚の皮で繋がっている」ような感覚、「今日も無事生きていられた」という感覚は、インドの方が強かったとは思いますが、タイでも全くゼロではなかったです。また、もし大きな地震や洪水などの自然災害があったら、きっと国は当然、最初に国民を守ろうとするだろう、我々はこの国にとって最初に考えてもらえる存在ではない、というふうに考えたことも多々ありました。もちろん、それは国として当然のことなんですが。インドでもタイでも、小さいですが地震はありました。

そんなふうだったので、ましてや、反日感情が強い国に住むというのがどのくらいピリピリしたものなのか、在中日本人の方々の心中がいかほどか、それは想像するまでもないと思います。また、深圳の事件があった以前にも、同じような事件が蘇州で起こり、その時は日本人親子は無事だったけれど、守ろうと身体を張った中国人女性が亡くなっています。それを受けて、深圳では警備を強化した矢先の事件だったようです。

事件後、様々な情報がネット上で流れてきました。中国の教育が悪い、だから中国人はみな、日本のことを心底嫌っている。いや、現地の人は男の子の死を心から悼んでいる、それが証拠に数多くの献花が並んでいる。いやいや、それは演技で、中国語のコミュニティでは犯人英雄扱いしている…。中国のことをよく知りもしない私は、何を信じればいいのでしょうか。

登校中の子どもが殺傷された事件は、日本でも何度も起こっています。中でも私が忘れられないのは、2017年、千葉県松戸市で、登校中のベトナム国籍の女児(当時9歳)が日本人男性に殺傷された事件です。犯人の男性は当時、誰もが知っている保護者会の会長で、現在は死刑を求める署名を集められながら、無期懲役の状態にいるそうです。なぜこの事件が特に忘れられないのかというと、当時、女児の保護者がこう言っていた言葉が残っているからです。「日本は歩いて登校できる安全な国だと喜んでいた。それなのに…」うろ覚えなので言葉の並びは違うかもしれないですが、2017年当時、私は子どもをインドでスクールバスで通わせていて、日本では徒歩で登下校できてよかったなぁと思っていたところだったので、この言葉が突き刺さりました。そして思いました。日本のことを信じてくれていたのに、裏切ってしまって本当に本当にごめんなさい……。

私は、中国の皆さんが深圳の事件をどう思っているのか、そもそもこの事件を知っている人がどのくらいいるのかも知りませんが、どんな人であっても、私と同じような感情を持つと信じています。なぜなら、我々は同じ人間だからです。どんな教育を受けようと、どんな文化の元で育とうと、目の前の男の子が戦時中の日本兵ではないこと、人を殺したら自分が罪を着ること、そんなことをしたところでどんなことも悪化こそすれ好転はしないことは、誰でもわかることです。誰でもわかるその社会のルールが分からなくなるのは、その社会から逸脱した人だと思います。そして、社会から逸脱した人というのは、どの社会にも一定数いるのだと思います。彼らがもし満ち足りていて幸せであったなら、そんなふうに逸脱する必要はないのです。

私はリアルな中国を知りませんが、中国語や中国の文化を少し知っていて、漢字というものを発明した文化として、とても尊敬しています。また、我々は似通ったところがあるなと感じています。歴史的にとても難しいかもしれませんが、我々漢字文化圏がタッグを組んだらさぞ面白いのにだろうになと思っています。

この事件をきっかけに、深くいがみ合うことは、あってはならないことと思いますし、お互いに妄想に囚われて無用な攻撃をし合うことがないといいなと思います。

相手は普通の人間であることを、信じることをやめてはいけないと思います。

東京新聞

朝日新聞

産経ニュース

NHK

読売新聞

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